第75話「寒thing else」

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ちなみに、ぷりっぷりのおしり氏との話で話題にのぼらせた「とつげき東北さんの行った哲学disに対し、哲学擁護凸を試みた」方から、その時の意図について、ご本人から訂正がありましたので、以下に掲載いたします。

medium404:@rev84 僕は「近代以前の哲学が、その分化として自然科学を生んだことを根拠に、哲学の有用性を擁護」したわけではありません。僕が擁護を試みたのは、あくまで「現代において哲学をすること」です。 http://twitter.com/medium404/status/267953531980488704
medium404:@rev84 件の凸において、僕の主張は、「自然科学の成立とは独立に、哲学の存在意義を認めうること」であり、根拠は「自然科学が対象とする領野の埒外に、哲学が理論的対象とするものがある」という理由です。 http://twitter.com/medium404/status/267953829268561920
medium404:@rev84 その「哲学の理論的対象」を端的に説明するのは難しいですが、件の凸配信の中では、認知科学の領野である「意識のイージープロブレム」に対し、哲学の対象とは「意識のハードプロブレム」であるとお話しました。(p.tl/4OAV)wikipedia http://twitter.com/medium404/status/267954130549628928
medium404:@rev84 「意識のハードプロブレム」は、古代ギリシャ哲学から現代の最新の潮流に至るまで、「ピュシス」「統覚」「現存在」等、呼び名を変化させながら、哲学がずっと格闘してきたものであると云えます。 http://twitter.com/medium404/status/267954528467431425
medium404:@rev84 「意識のハードプロブレム」に対し、現代の哲学者による"有効打"は無数にありますが、今の我々に親しみやすいものを挙げるとすれば、廣松渉の共同主観性の哲学が秀逸だと思います。 http://twitter.com/medium404/status/267954646524514304
medium404:@rev84 このように自然科学をはじめとする諸学問に対し、(隣接する人文科学の領域を含む)哲学における学問的対象の独自性が担保される限り、哲学の学問的存在意義を認めうるというのが僕の主張です。長々と失礼致しました。 http://twitter.com/medium404/status/267954922157400065